Last Updated on 2025年8月9日 by akito1012
目次
はじめに:「数学は役立たず」という一面的な解釈を切り崩したい…!
こんにちは、あきとです。
「二項定理、コーシーシュワルツの不等式、相加相乗平均、偏微分、内積、確率漸化式…。果たしてこれらの知識は、ビジネスマンとして羽ばたいた先の世界でこれらは役に立つのであろうか?!」。
学生時代、誰もが一度は口にする、あるいは耳にするであろう、このセリフ。
特に中学3年生の男子。
一見、もっともらしく聞こえます。
たしかに、たとえば日常生活で
- 「上司に報告する前に、ひとまず数学的帰納法で説明してみるか…」
- 「よし、洗濯機回すか。あ、えっと、その前に、接戦の傾きを求めておかないとなあ…」
なんてことやる機会は、まず訪れない
ただぼくは、この問い(=数学は役立たず?)は、半分正解で、半分間違っていると思う。
そして、「算数力/数学力こそが『生活力』を授ける」と、ぼくは考えています。
ここから先は、主に算数というより数学の方に力点を置いた解説をしていきます。解説というより、自分語り、ですな笑
数学の本当の目的:「抽象から具体へ」の思考訓練
数学とは「多段階的な情報翻訳」ゲームである
数学の問題って、一体何なんでしょうか。いきなり哲学的で鬱陶しくてすみません。
数学っていうのは、まず、文字や記号といった、極めて抽象的なもの。
言い換えると、地に足の着いていない情報の塊です。ある意味外国語、ともいえるかもしれません。
国立二次試験で出るような、「一見すると」淡白で味気ない問題、あれがいい例ですな。
たとえば、初歩的なところでいえば、
- 「インテグラルの0から1」と書かれて、その右側に何やらアルファベットと数字と記号で構成された文章が書かれて、これを「積分」しなさい、とか言いやがったり、
- 変数入りの三次関数と二次関数が付与されて、そこにまたまた変数入りのx軸の範囲が指定されて、そこからなにやら両グラフの重なり合う部分の面積の最大値の範囲を示せとか、指令してきたり
いやいや、あなた本当に日本人ですか?ってレベルですよね。ただでさえ読解できないのに、上から目線で、「求めなさい」「~しなさい」とか言われる。
そう。日本語だけど、脳にしみこまない。
つまり、地に足がつかない感覚におそわれるのであります。
醍醐味:曖昧さの中で思考しつづける
そして実は、これこそが、数学の神髄であり醍醐味。
曖昧でつかみどころのない概念を、四苦八苦しながら言語化する。
自分の中の知識や経験を、縦横無尽に脳内検索する。
「この抽象的な情報は、一体何を意味しているのか?」と、具体的な情報へと「翻訳」していく。
この、脳内検索/言語化/翻訳作業こそが、数学の第一歩なのです。
では、この「翻訳」とは何をすることなのか…。
頭の中の「条件分岐」と「実験」
さてさて、その翻訳作業は、一本道ではありません。
「Aというパターンだとこうなるな」「いや、AとCを組み合わせると…だめだ」「じゃあ、DとEならどうだ?」「お、先にBを使い、そのあとにCとAを使えば、この部分を紐解けるかもしれんぞ!」「あ、見た目は代数の問題だけれど、どうやらベクトルを使えばダイレクトで答えが出せるんじゃないか?」
こうやって、「ああでもない、こうでもない」と繰り返す。無限ループのトライ&エラー。
頭の中、あるいは紙の上で、絶え間ない「条件分岐」と「実験」のループに苦心する。
与えられた一つの抽象的な文章題から、自分なりに仮説や糸口を立てて、解法へのロードマップを丹念に模索する。
この、分解と試行錯誤のプロセスこそが、数学の醍醐味なんです。
そして、一つの「解」へ収束させる力
たくさんの条件分岐と実験を重ねた後、最後には、紙面や脳内で繰り広げた膨大な情報量を、たった一つの「解」へと結合/集約させていく必要があります。
情報を発散させるだけじゃなく、それを階層的に整理し、求められる解へと着地させていく。
この一連の流れ、つまり**「抽象的な問いに対して、条件分岐や実験などの翻訳作業を繰り返した末に、具体的な答えに着地させていく」**という頭の使い方。
これこそが、数学がぼくらに与えてくれる、最大の贈り物なんです。
なぜ、この訓練が「生活力」になるのか
人生とは「条件分岐」の連続だから
なぜ、この思考訓練のことを、わざわざ記事にしてまで発信したいと思ったのか。
ここで、最初の問いに対するひとまずの答えが出てくることになります。
最初の方に言及した、「この問い(=数学は役立たず)は、半分正解で、半分間違っていると思う」という文章に対する答えです
つまり、「数学の記号や計算式」は使わないけれど、「数学の思考プロセス」は極めて有用で実益である、ということです。
なぜなら、ぼくらの人生そのものが、終わりなき「条件分岐」の連続だからです。
趣味であれ学業であれ仕事であれ恋愛であれ教育であれ。
目の前にある、断片的で、時には曖昧模糊とした「事実」の連鎖。
その背後にある「文脈」を自分なりに解釈し、考えうる選択肢を洗い出し、最適なルートを選び、そして意思決定を下す。
このプロセスこそが、ぼくが言う「生活力」であり「知恵」なんです。
そして、その根底にある、思考の「癖」、それを基礎づける要素が、「数学力」といえるわけですな。
武器を増やし、より高みの境地へと駆け上る
そして、数学の学びが深まれば深まるほど、たくさんの「武器」をインプットできるようになる。
最初のころは、マイナス演算とかチェバ・メネラウスの定理、解の公式しかもっていなかった。
だけれど、学びが深くなるにつれて、徐々に帰納法や漸化式、三角関数みたいな高級で破壊力がある武器を使えるようになる。
使える武器が増えれば、より複雑なロジックも、なんとか紐解いていけるようになる。
種々の要素が入り乱れた問題を、関数やベクトルなどの武器で部分的に攻略しながら、時には条件ごとに場合分けをしながら、なんとか解決への糸口をあぶりだしていく、こういう思考実験。考え方。
この「紐解いていく」という頭の使い方は、たぶん自然とぼくらがしている、してしまっている頭の使い方ですね。
というか、この思考法ができなければ、お給料が高い仕事、つまり、抽象度が高い仕事にはフィットしないのかもしれません。
簡易な例_資料作成のご依頼と数学的(のような)思考
というと、「そんな頭でっかちの話ばかりされても理解できん!」という声が聞こえてきそうなので、ここらで1つだけ具体例を示してみたいと思います。
たとえば、仕事で「社内新人向けのAI研修教材を作りたいから資料構成とか考えておいて」と、上司から依頼されたとしましょう。
たぶんぼくらはまず、上司とそれぞれの言葉の定義をすり合わせますよね。
- 「社内」とは、全事業部が対象なのか、自分たちが属するところだけなのか。経営層も対象なのか、管理職や現場層に絞るのか。
- 「新人」とは、入社年度で区切るのか、年齢で区切るのか、経験年数で区切るのか。つまり年齢が高くても経験年数が少なければ対象に入るのか。
- 「AI」とは、そもそも何を指しているのか。マルチモーダルなLLM(GeminiやClaude等)なのか、画像に特化したRecraftのようなツールなのか、あるいはManusなどのAIエージェントなのか。
- 「資料」とは、Excelなのか、PPTなのか、その併用なのか。Excelなら必要な題材は、たとえば作業効率の向上による具体的な時短効果をグラフで示したいのか、PPTなら、大体何章くらいで作成して、それぞれにどのような内容を載せるべきなのか。
- 「目的」。そして一番大切な要素、この資料の目的は何か。新人のAIリテラシーの向上を目指した講義型の研修なのか、現場での具体的な実践に寄与するようなデモンストレーション型の研修なのか。あるいは単にAIトレンドを理解してもらうようなラフな形式を想定しているのか。
以上、仕事というのは、このように、1つの抽象的なメッセージを階層分解しながら、具体的な着地点をミリミリと紐解いていくわけです。先の例でいえば、「社内」とか「新人」という、淡白で飾り気のない言葉から、どんどん情報量を抽出していくような思考プロセスともいえるわけです。
簡単な例_もはやそれは数学力である
あれれ、と。これって、もはや数学じゃん、と。
sやt、u、Σ、∫、π、cos、tanなどの無機質な言葉から、情報を次々と展開していき、幾多もの分解作業や条件分岐を経たうえで、1つの解へと着地させていく。複数の条件を並行して検討していく。
こういうところに、ダイレクトに数学の考え方が生きてくる。
そういう意味で、数学力とは「生活力」であるといいたいわけです、ぼくは。
まあ、記号とか変数を駆使する数学の方が断然難しいことだけど笑
「平面的知識(歴史総合など)」との決定的な違い
文脈を読み解く「深さ」
この「文脈を読み解く力」という点で、数学は、他の科目とは異質の立場にあります。
たとえば、世界史や公民といった科目は、もちろん重要です。と、いい子ぶっておきます。
でも、極端な話、表面的な知識、つまり「平面的知識」をなぞっていくだけでも、ある程度の点数は取れてしまう。サラサラっと、表面をナデナデすれば、教科書をまるまる頭に詰め込めば、なんとなく8割9割が取れてしまう。結局日本語ですからね。
しかし、数学は違う。少し変数が変わったり、文字が増えたりしただけで、表面的な暗記は、全く通用しなくなる。途端に翻訳ができなくなるからです。
その問題が内包する、本質的な「文脈」を理解していなければ、決して太刀打ちできないんです。
だからこそ、この複雑な思考の訓練を無意識に忌避して、より暗記中心で対応しやすい私立大学の文系コースを選ぶ、という人が出てくるのも、ある意味では自然なことなのかもしれませんね。
最近は推薦入試が拡大してますね、ペーパーテスト大好き人間からすれば、過去の懐かしき風習が色褪せることに一抹の寂しさを感じてしまいますが笑。
まあ、勉強一本!ではなくて、自己推薦や総合型の推薦入試、つまり「自分」という存在を階層的に分解して、相手にその性質をアピールするような入試形式を選ぶ人が増えるのも、なんとなく納得ができる。
極端な話、ここで数学的思考が実生活に応用されているわけですからね。
おわりに:中学受験覇者が、王道を歩むワケ
結局のところ、ぼくが思うに、算数や数学とは、「抽象的な情報を、いかに具体的な方向に翻訳・解釈し、答えを導き出すか」という、思考のクセ(OS)を、脳にインストールする作業なんです。
たった1行のシンプルな問題文から、たとえば「東大生」が引き出せる情報量と、そうでない学生が引き出せる情報量には、天と地ほどの差がある。
それは、単なる知識量の差じゃない。
この「思考のOS」が、脳にインストールされているかどうかの差なんです。
OSという基本スペックがあるからこそ、既知の知識を連携させて、曖昧な概念から自分なりの解釈を導いていくことできるわけです。
だからこそ、幼い頃から、この思考法を徹底的に叩き込まれる「中学受験最強組」(筑駒、灘、開成、渋幕、聖光、桜蔭、豊島岡、麻布、海城、JG、駒東、浅野、フェリス…といったトップ校の生徒たち)が、その後の学歴社会でも、TOP層を歩んでいけるケースが多いのではないか。
思考OS=究極にして最強の武器、それを可塑性あふれる小6の段階で頭にインストールしてしまっているわけですからね
中受最強組による進路とは、たとえばこういう話です。
全統小学生模試のTOP常連組(お互い顔見知り)が、一度は中学受験で筑駒や灘へ散り散りになるけれども、大学受験で再び東大/京大/阪大/科学大等の医学部に集結するみたいな、あの現象のこと。「あれ、君、SAPIXのXX君だよね?」って話があるみたい笑
ちょっと極端な例かもしれませんけど、まあ、極端だからこそわかりやすいこともある。




コメントを残す