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はじめに:当たり前ではない「心の安寧」
こんにちは、あきとです。
我々の多くは、日々の生活の中で、自身の生命や身体が危険に晒される可能性について、心を砕くことなく、仕事や趣味に没頭できています。
この、静かで平穏な日常生活。いわば「心の安寧」。
しかし、この状態は、決して自然に存在するものではありません。
それは、我々の社会が、ある強固な「礎」の上に成り立っているからに他ならない。
昨今、活発に議論されるようになった移民政策。
しかし、その是非を問う前に、我々はまず、その足元にある「礎」の正体と、それが、いかに脆く、かけがえのないものであるかを、再認識する必要がある、かもしれない。
というわけで今回は、その、普段は意識されることのない、我々の日常を支える構造について、語ってみたいと思います。
我々の日常を支える「暗黙知」と「予見可能性」
内面化された暗黙知
なぜ、我々は、見ず知らずの他人がいる空間で、安心して過ごせるのか。
それは、我々が、法律という明文化されたルールだけでなく、社会に浸透した「暗黙知」を、深く内面化しているからです。
ゴミの出し方、電車の待ち方、会話の声量。
特定の場所や状況と、取るべき行動が、一つのパッケージとして、我々の頭の中にインプットされている。
そして、重要なのは、我々が、他人もまた、この「暗黙知」を共有していると「積極的に予見している」という点です。
ひどく庶民的で日常的なたとえ話をしてみましょう。
たとえばぼくのオフィスが入るビルでは、会議室を使うときは事前に予約しなければならない。
予約した時間にそこへ向かう時、ぼくは、「ルールを破って使っている人はいないだろう」と想定している。
この「予見可能性」こそが、我々の心の安寧の源泉です。
もし、行ってみて、誰かが、「空いてるから使っていいじゃん」という浅はかな考えで、無断で使っていたら、どうでしょうか。
ぼくは、強い憤りを覚えるでしょう。別にキレたり怒ったりはしませんが、間違いなくストレスはたまるでしょうね( ´艸`)
秩序は予見の集合体
この、個々の小さな「予見」の積み重ねが、社会全体の秩序を形成しています。
外国人観光客が「日本は綺麗で、治安が良い」と賞賛するのは、この「暗黙知」の共有システムが、極めて高いレベルで機能しているからです。
ぼくの言葉で言えば、日本の「日常生活の偏差値」は、65くらいある。
しかし、彼らは、その外面的な現象だけを切り取って見ているに過ぎない。
その秩序が、なぜ成り立っているのか、その根本原因に、目を光らせてはいないのです。
移民がもたらす「非連続的な変化」という亀裂
暗黙知=長年の発酵と熟成の賜物
この、我々の日常を支える「暗黙知」は、長い時間をかけた、連続的な時間軸の中で、ゆっくりと醸成されてきました。
しかし、移民の受け入れは、このプロセスを「ふっ飛ばす」。
どういうことか。
ぼくたちは、幼いころに日本に生れ落ち、日本の教育システムの中で疑似社会を体験し、日本の電車を利用し、日本の公園で遊び、日本の塾に通い、日本のお祭りに参加し、日本の歩道を歩き、日本の道路で運転してきました。
つまり、ぼくらは知らず知らずのうちに、じわりじわりと、しかしそれは確実に、暗黙知を個々の心の中に内面化していっていたわけです。
中間ステップを踏まない暴挙
しかし移民はどうでしょうか。
彼らは、我々が共有する「暗黙知」を、内面化するステップを踏んでいない。
その地に根差した振る舞いは、一朝一夕で身につくものではないのに、です。
ましてや自己主張が激しい中国人などが生真面目にわが日本の風習を素直に身につけたがるとは、到底思えません。
これは、社会に対する「非連続的な変化」に他なりません。
社会は名誉革命のように漸進的に変化すべき生命体なのに、暗黙知を知らない人々が無秩序に入り込んでくれば、そりゃもう革命以外の何物でもありません。
センシティブな領域への浸食
もちろん、彼ら一人ひとりに、悪意があるわけではないでしょう。
しかし、これまで「予見可能」であった社会に、そのパッケージ化された行動規範を共有しない人々が、非連続的に、そして大量に入り込んでくる。
それは、我々が築き上げてきた、安寧で秩序だった社会の「礎」そのものを、揺るがす行為に他なりません。
その結果、何が起きるか。
我々が誇ってきた「日常生活の偏差値」は、少しずつ、しかし確実に、低下していくでしょう。
そして、その変化は、経済のようなドライな領域ではなく、生命、身体、財産といった、人間の最も「センシティブな領域」に、直接的な影響を及ぼすのです。
一度蹂躙されれば、金では解決できない、その領域に。
というわけで次の記事では、こういう「慎重派」の意見に対して寄せられがちな反論(たとえば多様性やら対話やら)についてじっくりと考えてみたいと思います。
あ、「考えてみたい」というのは、多様性とか対話というマジックワードを要素分解しながら、これらが我らが暮らすリアルな世界で実現できるものなのか、そもそも実現しなければならないものなのか、なぜ移民問題に対する反論として効果的だと思われてしまうのか、その辺を深堀してみたいと思ってます。




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