こんにちは、あきとです。
前回の記事では、我々の「平穏な日常」が、いかに「暗黙知」と「予見可能性」という、脆く、かけがえのない礎の上に成り立っているかを語りました。
この意見に対して、おそらく、いくつかの反論が寄せられるでしょう。
「多様性を受け入れるべきだ」「対話で理解し合うべきだ」「我々には彼らを受け入れる義務がある」。
一見すると、これらの言葉は、非常に人道的で、正しい響きを持っています。
しかし、ぼくは、その根底に、ある種の「青臭い正義感」と、現実から目をそらした知性を謳歌する「危険な傲慢」が潜んでいると、考えています。
今回は、そうした、聞こえの良い言葉の裏側を、一つひとつ、解き明かしていきたいと思います。
目次
反論①:「理解できないなら、対話すればいい」という幻想
大前提を整理する
これは、最も頻繁に聞かれる反論です。しかし、この言葉は、根本的な問いから逃げていると思います。
そもそも、その考え方は、根本的な原則を見誤っています。 裁判でもそうですが、「自分に利益があると思う方が、その証拠の立証をすべし」という大原則があります。
これを、移民政策に当てはめてみましょう。「日本に暮らしたい、働きたい」と願うのは、当然移民の方たちです。であるならば、まずは、「自分を律することができるくらいの常識」を、こちらに来たいと願う側が、携え、そして、我々に示さなければならない。
大学が、自分の大学の魅力をアピールしつつも、全員を入れるわけではないのと同じです。 我が国が、「移住のしがいがある、誠に立派な国である」と、その価値を内外に知らしめることは、素晴らしいことです。 しかし、大学が、その学びの質や環境を守護すべく学生を選考するように、我々もまた、これまで築き上げてきた、この国の環境を守護すべく、人を選ぶ権利がある。
つまり、「ただし、全員は入れませんよ」と。
これから来る人々のことを考えるなら、これまで暮らしてきた人々に背中を向けることはしてはならんのです。
対話の努力を我々に求める前に、まずは、その利益を求める側が、果たすべき責任があるはずです。
対話はご立派。しかし相応のコストがかかる
- 「なぜ、我々が、一方的に『対話』というコストを支払わなければならないのか?」と。
考えてみてください。
ぼくらが内面化している「暗黙知」という指針に、並ぼうとしない人々がいる。従わない人がる。
その人たちに対して、「並んでください」と諭す。しかしながら、
- 言葉が通じないかもしれない
- ジェスチャーが通じないかもしれない
- そもそも彼らは我らの文化などにはみじんも興味を示さないかもしれない
- しつこく対話を迫ると逆ギレされるかもしれない
- 移民同士が徒党を組んで我が物顔で地域を跋扈するかもしれない
- それでもなお、対話を続けなければならない
なんじゃい、これ。
これは、我々の心に対する、明確な「負担」です。
「対話を強要されるくらいなら、対話が通じないのであれば、そもそも論、来なくていい」。
そう思うのは、決して、不寛容な態度ではない。
むしろ、自らの平穏な日常を守るための、正当な防衛反応です。
そもそも、その対話とやらは、本当に問題を解決するのでしょうか。現実問題、クルド人に「さあみなさん、対話をしましょう!!」とか呼び掛けたところで、果たして振り向くのかすら怪しい。
というより、長年かけて培われた行動規範は、数回の話し合いでどうにかなるほど、安価なものではありません。
反論②:「多様性を受け入れましょう」という思考停止
「多様性」という言葉もまた、非常に便利なマジックワードです。
じゃあこの多様性という言葉、何を意味するのでしょうか?
成功している「多様な社会」の代表格であるシリコンバレーを、よく見てみましょう。
あそこには、英語、ビジネス、テクノロジーといった、議論の前提となる「共有された価値観」が、厳然として存在します。
その共通のベクトルがあるからこそ、個々の多様性が、イノベーション/ビジネス/収益化という形で結実する。
皆が四方八方を向いているだけの、無秩序な状態は、多様性とは呼びません。それは、ただの混沌です。
我々の社会における、その「共有された価値観」こそが、「暗黙知」に他なりません。
その礎を破壊してまで、形ばかりの多様性を受け入れることに、一体何の意味があるのでしょうか。
愉悦に浸る前に、現実に浸るべきです。
反論③:「〜するべきだ」という、理念先行の危うさ
そして、最も危険なのが、「人道的に受け入れるべきだ」といった、理念だけが先行する「べき論」です。
理念が立派なのは、分かります。
しかし、その理念を実現するための、具体的なロードマップは、どこにあるのでしょうか?
リスク分析は? 他国の失敗事例の研究は?
大きな戦略の青写真を描くだけで、具体的な手順を示せない。
それは、現場を混乱させるだけの、いわゆる「嫌われるコンサル」の典型です。
これがビジネスの世界であれば、それは「絵に描いた餅」で終わるだけかもしれない。しょうがないね、青写真は結局空理空論だったね、仕方ないね、で終わるかもしれない。
しかし、移民政策は違う。
そこには、生身の人間が関わっています。
制度設計なきまま、青臭い正義感だけを羅針盤に、理想郷へと暴走する。
それは、政治家の「暴挙。取り返しのつかない結末を招きかねない、極めて危険な傲慢なのです。
そんな危険な傲慢を、先進国である我ら日本が維持し続けるべきなのか、そこには一考の余地があるのではないでしょうか。
・・・という、玉虫色の結論で締めくくり、次回の記事へバトンタッチしたいと思います。




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