推薦入試の拡大は、「子供への冒涜」である~福沢諭吉とブルデューで思索する

はじめに:福沢諭吉が夢見た「希望」の、終わり

こんにちは、あきとです。

かつて、福沢諭吉は『学問のすすめ』で、こう説きました。

生まれ持った身分や家柄で人生が決まるのは不平等だ。しかし、学問を修めさえすれば、誰だって立身出世できる。誰にでも、逆転の機会が与えられているのだ、と。

これは、近代化へと歩み始めた日本にとって、一つの「希望」の光でした。

そして、その精神を、最も純粋な形で体現してきたのが、「ペーパーテスト」という仕組みだと、ぼくは思います。

同じ日、同じ時間、同じ問題。出自も家庭環境も関係なく、ただひたすらに学問と向き合った、個人の真面目で、たゆみなき、誠実な努力。それが、「点数」という、極めて合理的で、平等な基準によって評価される。

この、後天的な努力こそが、大学という「知の道場」への扉を開く、唯一の鍵でした。

しかし、近年拡大する「推薦入試」という潮流は、この、福沢諭吉が夢見た「希望」の光を、静かに、しかし確実に、蝕み始めているように、ぼくには思えてならないのです。

「努力で獲得できる資本」と「家庭環境で世襲される資本」

フランスの哲学者、ピエール・ブルデューは、人間が持つ「資本」を、いくつかの種類に分類しました。これを借りると、現代の入試が抱える問題点が、くっきりと見えてきます。

「制度化された資本」―ペーパーテストで測れるもの

一つは、「制度化された資本」。これは、学歴や資格といった、公的に保証された価値のことです。

この資本の素晴らしい点は、本人の強い意志と集中力さえあれば、高校生活の最後の1、2年という、比較的短期間の努力でも、十分に獲得が可能である、という点です。まさに、個人の後天的な頑張りが、直接的に反映される領域です。

「身体化された資本」―推薦入試で問われるもの

そして、もう一つが、「身体化された資本」です。

これは、自信に満ちた話し方、洗練された言葉遣い、議論の作法、立ち居振る舞いの品性、芸術的な素養…。

こうした、個人の身体や精神に、長年の時間をかけて染み付いた価値観やスキルのこと。

推薦入試で問われる「総合的な人間力」の正体は、多くが、この「身体化された資本」です。

そして、この資本は、一朝一夕では、決して作ることができません。

それは、物心ついた頃からの、長年の家庭教育を通じて、ゆっくりと育まれるものだからです。

推薦入試は、新たな「身分制度」への回帰である

「経験偏差値」は、金で買える

推薦入試で評価される「経験」とは、何でしょうか。

東南アジアのボランティア活動(参加費+交通費)、インターナショナルスクール。

もっと視点をあげると、

堂々たる話し方、立ち居振る舞い、上品なお作法、巧みな話の広げ方、豊かな教養に裏打ちされたストーリー構築。

聞こえはいいですが、社会的に「立派」とされる経験の多くは、親の経済的な余裕、あるいは、子供の教育に深く関与できる、時間的・精神的な余裕に、大きく左右されます。

ぼくが「経験偏差値」と呼ぶこの指標は、悲しいかな、お金である程度「買う」ことができてしまう。

たとえば最近では、以上の「自己ブランディング=プレゼン、研究計画書」に特化した塾までも登場しており、その学費も年数十万~数百万に及ぶわけです。

こりゃいよいよ新たな階層格差が生まれ出づるのも時間の問題かもしれません。

格差を固定化させる、危険なパラダイムシフト

ここに、推薦入試が孕む、最大の問題があります。

それは、後天的に獲得した「学問」という資本の価値を相対的に下げ、世襲や身分に近い性質を持つ「家庭環境」という資本の価値を、意図的に高めてしまっている、ということです。

これは、社会階級の格差を、より固定化させる、極めて危険なパラダイムシフトです。

福沢諭吉が断ち切ろうとした、前近代的な身分制度への、静かなる回帰。

それが、今、教育の世界で起きていることの、核心的な危機なのではないかなと、思っています。

「泥臭い努力」を笑う、空虚な時代

「知識だけあっても意味がない」という言葉が、もてはやされるようになりました。

スマートに、論理的に、構造的に。

そういう耳障りの良い言葉に、自称「意識高い系」の高校生が、安易に飛びつく。

そして、教科書を地道に読み込み、一つ一つの知識を泥臭く積み重ねていくような、真面目な努力が、どこか軽んじられる風潮がある。

しかし、忘れてはならない。

  • 知識なき議論は、単なる「空虚な感想の言い合い」です。

その泥臭い積み重ねこそが、議論の土台となる「教養」を育む、唯一の道なんです。

「くだらねぇ」「つまんね」「だるくね」。みたいな言葉を使いながら、辛くなったら「希死念慮」アピール。いい御身分ですな。

おわりに:それは「子供に対する冒涜」に他ならない

ぼくが、この推薦入試の拡大に、強い危機感を覚える、最後の、そして最大の理由。

それは、この制度が、「子供に対する冒涜」である、と考えるからです。

18歳。

それは、ようやく、本当にようやく、子供が「自我」を確立し、親の影響下から少しずつ抜け出し、自分自身の意思で、目標を定め、自律して物事の段取りを地道に計画していける年齢です。

にもかかわらず、推薦入試という制度は、彼ら彼女らの、その、生まれたばかりの尊い意志を評価しない。

代わりに、3歳や4歳の頃から、親の振る舞いや、家庭の食卓での会話、美術館に連れて行ってもらった経験などを通じて、無意識のうちに形成された「身体化された資本」を、審査の対象とする。

ぼくは、問いたい。

なぜ、いまだに親の影響力が色濃く残る、幼少期の背景に基づいた入学検査を、一人の独立した個人になろうとしている18歳に、課すのですか、と。

それは、子供自身の、人生を切り拓こうとする、その尊厳に対する、冒涜に他なりません。

と思っているのですが、ぼくも推薦100%反対派ではありません。

たとえば、生物学オリンピックのメダリスト、プレゼン大会の最優秀賞受賞者。そういうトンガリをもつ人は、集団がチームとして成長する触媒として機能する欠かせない存在です。

というお話は、また後日の記事に譲ることにいたしましょう…。

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