「みんな違ってみんないい」。結果何も決められない

Last Updated on 2025年7月26日 by akito1012

こんにちは、あきとです。

「改めて見直すともに、迅速に対処いたします」。

こういう、風船みたいな、中身が何もない言葉(マシンワード)がぼくは好きではありません。

はじめに:耳心地の良い言葉と、向き合うべき現実

最近、「多様性(ダイバーシティ)」とか「包括性(インクルージョン)」って言葉、めちゃんこ聞きます。聞かされてます。

社会は多様な価値観を認め合い、誰もが受け入れられるべきだ…うん、理想としては、すごく美しい。ぼくもそう思います。

でも、時々ふと思うんです。その耳心地の良い言葉の裏で、ぼくたちは何か大事な議論を避けてはいまいか、と。

今回は、そんな「多様性」という言葉が、特に政治や社会の文脈でどう使われがちか、そしてそれがぼくらの現実とどう関わってくるのか、ぼくなりの考えをちょっと整理してみたいと思います。

政治のリアル:それは「資源の奪い合い」と「配分のルール作り」

権利の奪い合い:静かで熱い民主主義

まず、政治って、すごく大雑把に言うと、限られた資源(お金とか、土地とか、影響力とか)を、どうやって分け合うか、そのルールを決めるための「権力の奪い合い」なんだと思うんです。

綺麗事だけじゃなくて、そこには生々しい「価値/権利の奪い合い」がある。

この「奪い方」は、国家の体制により違いますね。

たとば一党独裁体制下の権威主義的な国家では、そもそも国民に権利の再配分を決める権限は与えられておらず、そのロールはもっぱら党あるいは党の指導者層に集中しています。

一方で民主主義では、権利を奪い合うその手段として、「選挙」というマイルドな仕組みがある。

選挙を通してぼくらは、「この人に資源配分の舵取りを任せたい」っていう意思を示すわけですよね。穏やかに、でも想いを込めて、1枚の紙切れに自分の権利を託しているわけですな。

じゃあ、誰に配るの?:「ネイション」という共同体

資源が限られてる以上、全員に無限に配るなんてことはできない。

だから、「まず、誰に配るべきか?」っていう優先順位、つまり「スコープ(範囲)」を決めなきゃいけない。

そこで一番納得感があるのが、やっぱり「ネイション(国民・国家)」という単位だと考えてます、ぼくは。

暗黙知の共有とネイションステイト

ぼくが思う「ネイション」って、単に同じ国籍を持つ人の集まり、っていうだけじゃない。

同じ言語を話し、同じような文化を共有し、もっと言えば「電車でリュックは前に抱えるよね」とか「油は固めて捨てるのが普通だよね」みたいな、言葉にされないけど共有されてる「暗黙知」の共同体。

ネイションステイトは、この「暗黙知のネーション」と、法律や制度といった「ステイト(国家機能)」がしっかり噛み合ったもので、組織としてはかなり頑強なものだと思うわけです。

ポランニーも、「実在との接触で暗黙知に触れよ」と言ってましたね。暗黙知とは、あれです。

「多様性」という言葉が、議論を止めてしまう?

でも、この「誰にどう配分するか」っていうのは、めちゃんこ難しい議論。

ネーションの中だって、年齢も性別も稼ぎも能力もみんな違う。

だから、税金や社会保障で、さらに細かい調整が必要になる。

これは、必ず誰かにとっては「得」で、誰かにとっては「損」になる、痛みを伴う選択の連続です。

ここで、「多様性だから」「包括的だから」っていう言葉が出てくると、この本質的な「選択と集中」の議論が、なんだかボヤけてしまう気がするんです。

「みんな違ってみんないい」で結論が出ちゃうと、結局何も決められない。

「考えることの負担から解放されたい」「具体的な課題解決のストレスを避けたい」っていう心理が、美しくて誰も反対しにくい「多様性」という言葉に、逃げ込ませてるんじゃないかなって。

それって、批判を避けるための、ある種の「八方美人」的な態度にも見えちゃうんですよね。

媚びて逃げてるだけの臆病さを反映してるだけなのではないかしら、と。

移民問題と「多様性」:受け入れの「責任」

受容と責任

この「多様性」という言葉の使われ方は、特に移民問題の文脈ではほんと要注意。

まあぼくが移民問題に興味があるだけなんですけど笑

色々な背景を持つ人々が国に入ってくること自体は、その国が国際的に魅力があるということでもあるから、確かに喜ばしいことかもしれない。

でも、「多様性だから受け入れましょう」で終わっていいのか。

その人たちの教育レベル、稼ぐ力、そして何より、受け入れ側の社会が持つ「暗黙知(日本の生活習慣や文化)」とのギャップをどうするのか。

そこに対する国の「責任」を、そして移民達の「覚悟」を、もっと真剣に考えなきゃいけないのかなと思ってます。

「多様性が嫌だ」、ではない。この論点は、生き急いだ政策の結果無秩序と混乱を招いたドイツの惨状から学び取ることができる、「多様性」というマジックワードに隠れた、現実であり事実であり課題であり教訓です。

一方が受け入れて、もう一方も受け入れる

受け入れてもらう側(移民等)も、「郷に入っては郷に従え!」とまでは言わないけど、新しい社会の文化やルールに「ちょっと馴染んでみようかな」っていう努力は、やっぱり必要だと思う。

その相互の努力なしに、「多様性だから何でもアリ」では、社会の秩序は保てない。

結局、管理しきれなくなって、不幸な結果を招いてしまうかもしれない。スウェーデンとかテキサス州とかみたいに。

言葉は悪いけど、「犯罪を犯す人は送り返す」っていう厳しい判断も、時には必要になる。

日本人受刑者1人を社会(つまり刑務所)で支えるのにだって、年間300~400万かかる。軽犯罪レベルならまだしも、このお金を他国籍の社会更生のために使うなんて、ちょいともったいない気もする。20万で送り返して再入国禁止っていう手段もあるわけで。

まあ、政治はボランティアじゃないんですからね。

おわりに:「多様性」という言葉に思考停止しないために

結局、「多様性」って言葉自体は、「状況に応じて適切に行動します」って言ってるようで、実は何も具体的なことを言っていないかもしれない。すごく便利な言葉だから使いたがるのかもしれません。

ぼくらは、日常でも政治でも経済でも、常に「何かを選び、何かを諦める」っていう厳しい現実と向き合っているという事実から目を背けたらいけないんだなと、最近考えているわけです。

リソースは有限ですからね!

…って、リソースといえば、時間もリソースの一部。ぼくの残りの50年近い人生、時間をどう配分していこうかしら。タイムアロケーションに悩むぼくなのであります(…横文字!)

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