Last Updated on 2025年12月31日 by akito1012
ぼくらは神話で生きている
最近とあるDeepResearchを読んでいて、マイヤーとローワンという2人の学者さん、まあ界隈では新制度論ものとかいうらしいのだけれど、その2人が大変に世の中の本質を抉り出す示唆に富んだ内容のレポートを発表していまして。
まあ結論から言えば、我々は「ちゃんとしている」と周囲から思われる可能性が高い選択肢を選んで行動しているだけ。
ただ、その「ちゃんと」というのは、社会というシステムの中で発酵され醸成されてきた神話のようなものに過ぎないんだぜっていう考え方。
たとえば最近の大企業。の、特にジェンダーやら脱炭素やらのご立派で耳障りがいいアクションプランがいい例ですな。
取締役会直結で、たとえばダイバーシティ推進協議室やら、ジェンダー活躍推進本部やら、そういう名前だけいっちょ前にアメリカナイズされた部署が雨後の筍のように大量発生していますよと。
じゃあこれってなんのためなのかといえば、
そりゃ当然「正当性=ちゃんとしている」というレッテルを周りから張ってもらうためのものであって、
ボードリヤール風にいえば、中身のないただの記号に過ぎないわけ。
中身がどうとか、人員構成がどうとか、KPIがどうとか、そんな話はどうでもいい。
「適切」であり「真っ当」であり「真摯」であるという承認を得たいがための、ただの踏み台なのであります。
他にも、たとえばよく社内のメールで送られてくる「ストレスチェック」という回答精度もアフターフォローもガバガバの、もはや儀式と化している、例の社員メンタルチェックが定期的に開催されているじゃないですか。
あれだって、中身なんて人事部はほとんど見てないっすよ。
大事なのは、中身じゃない。
内容じゃない。
何がしたいかといえば、社会や東証に対する正当性のアピールです。
我々は、社員のことを気遣うシステムを「導入」してますよ、欠かさず毎年「やっていますよ」という見えやすくてわかりやすい実績を表に出すことで、
社員を大切にしている企業であるというポジションを獲得したい。
ただそれだけのことです。
つまり、「信頼」できると周りから思われる可能性が高くなる選択肢を選んで心地よいポジションを獲得したいがための極めて高度な生存戦略ということになるわけですな。
結婚は正当性を獲得できる便利で即効性がある手段
ぼくはもう25歳で、来年2026年の1月には26歳になるわけです。
恋人いない歴=年齢、ではさすがにないけれども、もう5年近く女性とお付き合いしていない。
じゃあお付き合いしたいかといえば、そりゃ浴衣着て東京ドームのぐるぐる回る観覧車見ながら、
他愛ない話で360度を過ごすような体験をしたいと思わないわけでもないけれども。
まあぼくのDNAは、人と一緒にいると気疲れするようにプログラミングされているので、
たとえば、人と週1とかで会わなければならないという社会的な義務は、
ぼくの心の安息を著しく脅かしてしまうわけであります。月1でいい、どんなに好きでも。
すると、そういう恋愛の延長線上にある「結婚」って絶対ぼくにはできないのではないか、
まあそもそも25年間生きてきて、
結婚したいと思ったことは累計30分くらいしかなくて、
それ以外の24年と23時間30分は結婚なんて切って捨てるような日々を過ごしてきたわけです。
いや、そもそもしたいのかどうかすらわからないのです。
じゃあ仮にしたいとすれば、なぜぼくは結婚をしたいのか。気疲れするし、婚姻15年後には割と高確率で女性は細かいことにグチグチ口を出してくるようになるし、子どもがいようものなら中学受験やら授業料やらのお金の話で議論が生まれるし、少しでもおなかが出たり薄げになったりしようものならそこをダイレクトで指摘してあからさまに気持ち悪がられるようになるし。
結局幸せなのって、
というか、周囲に自分たちは幸せであるという「記号」を振り撒くことができるのって、
最初の10年くらいなのかなって。
じゃあ、なんでぼくは結婚したいと考えてしまうのか。
それこそが、最初の答えなのです。
つまり、「ちゃんとしてる」と思われたいから。
「養い養われるようなパートナーがいて、しっかり子ども作って、毎日子育てして・・・」
みたいな、人間の生き方として固定されたルート=神話があるため、
その神話に乗らないと、周囲からは若干の侮蔑と嘆きが混在した視線で射抜かれてしまうわけです。
それが、こわい、わけではなくて、なんとなく生理的に不快。
だからこそぼくは、周囲の「期待」を満たすためのかけがえのない選択肢として「結婚」という便利で汎用性のある制度的な「記号」をいったんは手に入れたい、そう思うわけであります。
もちろん生き方の多様性やらなにやらの耳障りがいい言葉は昨今大量に聞かれるようになりましたが、何だか薄っぺらくて現実味がないんですよね、こういう意見って
DeepResearchという百科事典、というより億科辞典
にしても、過去の学者さんが唱えた説を勉強していると、
というより、好きで読み漁っていると、
ふと自分の中にあるわだかまりが解消する瞬間が訪れるわけです。
たとえば、プーさんと映っている写真をネットにあげたがる女子高生の心理とか。
(プーさんを出汁にして自分の可愛さをネットにアピールしたいがための巧妙な戦略のこと。あからさまに自分の顔を前面に出して可愛さ(自称)アピールをするよりも、プーさんという緩衝材を間に挟むことにより、自分が可愛い女子(自称)であることを世界に発信するという真の目的をオブラートに達成せしめんとする狡猾で高度なマーケティング戦略なのでありますな)
で、今回はちょっととあることを契機に知った「マイヤー」たち新制度の方たちのお世話になったわけでありますね。
すると、なるほど、たとえば近代の官僚制システム(ウェーバー)もグローバリズムも人道支援も、「ちゃんとしてる!」というレッテルを張り付けてもらうための大切な生存戦略だったのかと、妙に納得してしまったわけです。
別にぼくはこういう神話を断罪しているわけではありませんし、
「神話に縛られない自由な生活を送りましょう」みたいな。
至極退屈な結論で締めたいわけでもありません。
じゃなくて、ぼくは改めて、日本とかそういう文明圏の便利な生活は、
神話のような脆く崩れやすい地盤の上に成り立っているのだなと理解したわけです。
そして、社会の根本的な構成要素である家族もその一つ。
家族を持ち立派に子育てをしましょう、みたいな神話があり、その神話を達成することで周囲から一人前という承認を獲得したい、そのための生存戦略が、ぼくにとっての結婚だったわけです。
さて、ぼくは結婚をすべきなのか。
いや、
ぼくは結婚をしなければならないのか。
こりゃ答えが出る前にだいぶ時間がかかりそうですな。そもそも答えなんて出ないけれども。
なぜなら、人は今の結婚相手との生活に満足していれば結婚を肯定的に評価するわけで、結局今の状態を基準に物事をとらえることしかできないわけですからね。
そんなもんですよ、今さえ、自分さえ、が動物の基本ですから。
で、何が言いたいのかといえば、今が25歳なので、あと40年以上も生きなきゃいけないのかと思いながら、2025の12月31日の午後10時にこのブログを書いているわけでございます。



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