アメリカ被れの教育制度。「探究型学習」の罠。体系化された“知”の獲得なくして、議論は始まらない

Last Updated on 2025年11月13日 by akito1012

アメリカ被れの教育制度

結局我らが日本の教育は、よくわからないままアメリカナイズされているだけのような気がしてくる。

いわゆる、「実態を伴わない形式的な模倣」ってやつです。

だから、目的と手段が、いまいちかみ合わないんです。

格差解消!と咆哮をあげて、ちょっとアメリカ被れの施策を打ち始めちゃう。

総合型とか、女子枠とか、学生に媚びる改革(後進)を始めてみる。

でも、なんか前提がずれている気がしてならない。

前提を知らないまま、お飾りだけを輸入しちゃう。かわいい。

そもそも、人物を多面的に評価する入試制度が極めて優れているとか、例のハーバード白熱授業のような階段教室での丁々発止の討論スタイルが教育の絶対解なんだとか、被れちゃっている人が多いなって。

たとえばアドミッションオフィスをはじめた理由は、結構グレー。

というのも、1920年とかそのころアメリカの大学は、学生に占めるユダヤ人の人数がどんどん伸びてきたことに危機感を抱いていた。だから、そのユダヤ人を合法的・道徳的に追い出す必要性が出てきた。

いいかえると、白人を確保するために、「人物」入試という、なんとも玉虫色であいまいな基準を導入することで、人種差別という批判を巧みに回避しながらユダヤ人を一定数排除できる仕組みの構築に成功したっていうこと。

小賢しいというか、戦略的というか。

で、日本でも、入試の不透明性を高める以上の制度に対して、大学とカ官庁とかが、目を炯々と輝かせながら寄り集まってくる。

公平であるべき入試システムの中に、公平さからは程遠いやり方で合否を判定するやり方を植え付けようと模索し始める。

結果として、当地では「社会階層の固定化装置」と呼ばれている制度を、嬉々として爛々と日本にとりいれようとしてしまうのです。

実はアメリカでは、SPIとか高校の内申点みたいな学力指標のトップ軍団を対象に、エッセイとカ課外活動の記録の精査をしているよう。だから、そももそ米国大学には、がり勉の極み+課外活動の極みみたいな、学力非凡コミュ力万能の精鋭が凝集されている場所なんですって。日本の総合型(旧AO)とは大違いだ。

どんどん注入。がやっぱり最強

改めて、日本語に乾杯。江戸~明治の翻訳者に敬礼。

物事を考えるというか、議論する時って、何が必要なんでしょうかね。

まあまず、言語ですね。

じゃあ日本語ってどうなのか。議論に耐えうる言語なのか。

ところで、非西洋言語の中で、物理とカ化学とか、そういう高度な情報を扱える言語って、めちゃんこ少ないんですよ。

具体的で感情的な議論にしか適応できていない言語は、抽象度が高い、つまり高度な情報処理を求められる学問には不向きなんですね。

しかし。

おめでたいことに、日本語はその圧力に耐えうる大変恵まれた言語です。

だから、我々は胸を張って日本語を使っていいわけです。

下手に英語被れにならなくてもいい。

アメリカナイズをアピールしたければご自由にって感じです。

知識は入れておいてもらわんと

じゃあ、あとは何が必要かな。

たとえば、世界史の植民地政策について議論しよう!!ってなったとする。

まあちょっとテーマ設定が適当だけれど、このために必要な知識としては、

  • そもそもいつの時代の話なの
  • 植民地ってそもそも何?
  • どの国?あれ、日本って参加してたの?
  • どこか植民地になったの?アメリカ?アフリカ?オーストラリア?あれ、当時オーストラリアってあったの??
  • てか、誰が主導したの?
  • 一番領土をかっさらったのってどこ?

みたいな、まあいわゆる「前提知識」がないと論外。

まずもって、まったく議論が進まんわけですよ。

小学2年生に議論させたところで、空虚な感想の言い合いで終わるだけで、まあそれはそれで興味を持たせるきっかけにはなるけれども、なにか有意義な時間になるかといえば、ぼくはあまり思えない。

つまり、議論には、「知識の共有」という前提が鎮座しているわけでございます。

議論開始だ!!

参加者の間で、知識を持って、スタートラインを合わせる。

そのあとは、なんかアメリカでいうプリセプトみたいな形式で、お話を始めちゃうのですよ。

たとえば

  • 「よし、あれ、先週の続きでいい?あの、例の、欧州の植民地戦争、割といい線で終わっちゃったんだよね、やろうやろう」
  • 「そうだね。ぼくはこのタイミングでイギリスがこの行動を仕掛けたのは結構な策略家だと思うわけですよ。小賢しいというか。なぜならXXX」
  • 「えとですね、私は、えっとね。たとえば、そのイギリスに対抗する形で、ロシアとフランスがXXXだったじゃないですか。だけれど、もしここでフランスがXXXの方向にシフトしてたらどうなったんだろうって思っちゃうんですぅ」
  • 「それはちょっと深堀したいね。誰か当時のフランスの獲得領土の変遷をすぐに出せる人いる?」
  • 「あ、私持ってるよ!それはねXXXとかXXXだね」

おおお。

みんながみんな、知識という地盤に、どんどん自分なりの味を、色を、香りを、添加しているじゃないですか。

生産的!有意義!楽しそう!

これぞ、「議論」ですな。

体系化された知を召し上がれ

ちょっと、話が全然違う方向にずれていったので、軌道修正しますね。

まじで明後日の方向に進んでて、びっくらこきました。

あれですね、アメリカナイズされた教育を手放しで喜ぶと、ろくなことがないよってことです。

だから、たとえば、探求型とかPBLとかいうけれど、その前提には「体系化された知」が鎮座する。

この知は、積上げ型(=詰込み)の教育で効率的に養うことができる。

その「知」の獲得具合を確認するのが、大学の受験。

具体化すれば、共通1次試験であって、センター試験であって。

これらのテストで、体系化された知=教科書(を中心とした参考書)の知識を問われて、で、頭の中で整理された情報を、せっせせっせと吐き出していくわけだ。マークシートや記述欄をぬりぬりしていくわけです。

加えて、この入試方法は、なんとも平等で公平。

つまり、「知」の確認を「平等」に行える、極めて賢く仕組化された入試システム、それが、わが日本が戦後作り上げてきた入試制度だったわけですね。

それがいまでは・・・。空白地帯に中国人富裕層が入り込んできたり・・・。

まあ、ぼくは25歳の平凡な傍観者なので、これからも受験界隈を楽しく観戦してまいります笑

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