目次
はじめに:中学受験という「奇妙な舞台」を、ちょっと真剣に考えてみる
(抜粋)では、なぜ、それでもこの過酷な競争に挑む価値があるのか。それは、血に飢えたハイエナが闊歩する、マネーゲームという名の現実社会を生き抜く上で、この経験が、大きな力になるからです。中学受験という過激な戦場で、コーチやマネージャーと共に、チームワークで勝ち抜いていく。 この経験こそが、子供に、具体的な戦略や、本当の意味での「生活力」を授けてくれる。
こんにちは、あきとです。
中学受験。
それは、ある人にとっては「学ぶ楽しさ」に目覚める輝かしい舞台であり、またある人にとっては、資本主義の権化とも言える、珍奇で奇妙な興行のようにも見えます。
この、光と闇が渦巻くテーマについて、今回は、ぼくが個人的に考えていることを、少し雑談のような感じで、語ってみたいと思います。 まず、その「目的」について、ですね。
動機は「やらされ感」か、「探求心」か
人を動かすのは、結局「マインド」
そもそも、勉強って、本来は楽しいもののはずなんです。
自分の興味の赴くままに、情報空間を広げていく「探求」の試み。これを、心の底から嫌う人って、あんまりいないんじゃないか。
でも、この生産的な取り組みが、誰かから強制され、「やらされる」苦しいものになった瞬間、全てが歪んでしまう。
負荷をかけられれば、体は動くかもしれない。
でも、その動作を、意味のある「行動」に昇華させるのは、結局のところ、その人自身の「マインド」、つまり感情なんです。
「面白い」「もっと知りたい」「できるようになりたい」
この内なるエンジンが点火しない限り、どんなに高級な塾に通っても、それはただの苦行でしかありません。
おそろしいのは、その「苦行」により、勉強は苦行であるという先入観が子どもに植え付けられてしまうということですね。惨めです、勉強ってあんなにおもしろいのに。
真のゴール:「親の願望」ではなく、「子どもの軸」を見つけること
では、中学受験の、本当のゴールって、一体何なんでしょうか。
「偏差値60の私立に合格!」みたいな、短期的で味気ない結果、それだけでしょうか。
もちろん、その結果として、渋幕とかJGとか東大寺のような、「自主自律」の精神を重んじる学校環境に身を置けるのなら、話は別かもしれません。
入学後に、受験プロセスで抑圧されたものを取り戻せる可能性もあるからです。
でも、多くの場合はどうでしょう。「制服着て、学校行って、授業受けて、部活やって、帰って、寝る」…そんな、画一的な日々の繰り返しの中で、失われた「自分の軸」を、もう一度見つけ出すのは、至難の業ではないか。
学校の色とかに関するご意見がネットには溢れていますが、一部のTOP校を除けば、どこ行っても大して変わらんでしょっていうのがぼくの意見です笑
だからこそ、ぼくは、結果そのものよりも、そのプロセスの中で何を見つけるか、の方が、よっぽど重要だと思うんです。
人生の縮図を「疑似体験」する、ということ
では、本当のゴールとは何か。
ぼくは、中学受験とは、12歳という年齢で体験するには、あまりにも壮大な「ビッグプロジェクト」であり、「人生の縮図」を疑似体験できる、密度も濃いイベントなんじゃないか、と思うんです。
限られた時間、限られた資源の中で、いかにして目標を達成するか。
塾という「コーチ」、親という「マネージャー」、そして自分という「プレイヤー」が三位一体となって、この巨大なプロジェクトを乗り越える。
成功失敗に限らず、この経験そのものが、子供にとって、かけがえのない「糧」になる。
これこそが、「自分の軸」、つまり「生活力」を育む、中受がくれる至上の価値だと思う。
逆に、このプロセスで、子供がただ親に尻を叩かれて進むだけの「馬」になってしまっては、この貴重な体験を得ることはできない。
それこそが、中学受験における、最大のリスクだと、ぼくは思います
目的を失った受験生の末路
「精神世界の浮浪者」の誕生
もし、この「軸探し」の機会を奪われ、ただただ「やらされ感」だけで12歳までを過ごしてしまったら、どうなるか。
自我が芽生え、自分の興味の赴くままに行動できる、10歳前後の、あの、かけがえのない時間。
その時期を、自由や自律性を徹底的に抑圧する全体主義的な教育の支配下に置かれた子供は、自分の興味が何なのか、何が楽しいのかすら、分からなくなってしまう。
周りのトレンドに流されるだけの、悲しきかな、軸がない「精神世界の浮浪者」にならざるを得ない。
責任を他人に押し付ける、悲しい大人へ
そして、もう一つ。
「やらされる」立場でしか物事を経験してこなかった子供は、たぶん、一生「言い訳」をする人に育ってしまう。
- 「だって、親がこう言ったから」
- 「先生がこれをやれって言ったから」
自分の意思で選択した、という経験もマインドもないから、自分のアクションが招いた結果の責任を、すぐに他人に押し付けてしまう。そんな大人になってしまうんじゃないか、と。
おわりに:では、どうすればいいのか?
中学受験は、やり方を一つ間違えれば、子供を「精神世界の浮浪者」にも、「言い訳をする大人」にもしてしまう、危険な罠を孕んでいます。
では、なぜ、それでもこの過酷な競争に挑む価値があるのか。
それは、血に飢えたハイエナが闊歩する、マネーゲームという名の現実社会を生き抜く上で、この経験が、大きな力になるからです。知恵になるからです。糧になるからです。
中学受験という過激な戦場で、コーチやマネージャーと共に、チームワークで勝ち抜いていく。 この経験こそが、子供に、具体的な戦略や、本当の意味での「生活力」を授けてくれる。
では、子供を「言い訳をする大人」にせず、この過酷な戦場を、生き抜く「力」に変えるためには、親は、そして子ども自身は、具体的にどう振る舞えばいいのか。
次回は、その具体的な「立ち回り」について、ぼくなりの考えを、話してみたいと思います。
というより、ぼくの中学受験体験をベースに語り尽くそうかなと思います。




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