Last Updated on 2025年7月26日 by akito1012
目次
はじめに:地に足のついた「大黒柱」を求めて
「共に生きる」という言葉は美しい。でも、その美しい理想を実現するためには、その裏にある、生々しい人間の感情や、社会的なコストから、目をそらしてはいけない。
こんにちは、あきとです。
直近の参議院選挙において、飛ぶ鳥落とす勢いで、いや、3年間の地道な泥臭い努力の積み重ねが実を結んだ結果として、国民の幅広い支持を獲得するに至った政党。
参政党。
誠実さ、訴求力、熱意、ロジック。政治に必要なものを兼ね備えたこの政党に、ぼくは若干の期待を寄せているところです。
その理由は、確固たる国家観に根付いた、具体的で実践的な政策を提唱している、地に足のついた政党だからです。
別に、彼らの個別の政策に100%賛同している、という話ではありません。彼らの発言の一つ一つが、一つの目的に向かって収斂していく、つまり「点と点が繋がっている」感覚。
そして、その根底に、党としての「確固たる大黒柱」が、どっしりと存在していると感じられるからです。
他の政党が、時に「で、結局、何が達成したいの?」「男女平等の目的は何?平等とは?」と、地に足がつかない印象を受けるのとは、対照的に。
今回は、ぼくがなぜ彼らに共感するのか、その根底にあるぼく自身の「国家観」と、そこから導き出される「移民問題の本質」についての考えを、包み隠さず、がっつりと語ってみたいと思います。
ぼくの理想とする国際社会:「コク」と「キレ」のバランス
画一化(=グローバリズム)の違和感
ぼくの理想とする国際社会。
それは、第一次・第二次世界大戦の頃のような、帝国主義的な政治・経済思想に基づいた、世界を画一化していくようなグローバリズムとは、全く異なります。
国ごとに、その土地に根付いてきた慣習や実践、風俗がある。
それぞれの国が持つ、固有の「国性」がある。
それを「尊重」なんていう安っぽい言葉で片付けるのではなく、互いに「重んじ」、そして「認め合う」。
そういう、自由で自決できる国民国家が、多様なまま共存できる国際秩序こそが、あるべき姿だと、ぼくは考えています。
これは、二つの大戦の反省から生まれた、世界の大きな潮流のはずでした。民族自決、ODA、信託統治理事会etc…。
しかし今、ぼくらの目の前には、目下新たなグローバリズムが台頭しています。
「経済の自由化」という名の下に、金儲けをしたい強者たちの論理で、各国の規制や法的な保護、関税といった「差異」を、全て取っ払ってしまおう、という動きです。
そもそも、国ごとに自然も地形も民族性も、根付いている文化も言語も法律も違う。
だから、得意とする産業分野も、働き方も、食文化も違うわけです。
それを「安く作って、高く売る」という強者の論理で画一化しようとする試み。
これって、言い換えれば「世界統一プロジェクト」ですよね。経済的に領土を貪り、他国市場を侵略する、形を変えた帝国主義です。
大げさに聞こえるかもしれないけど、本質はそういうこと。
そして、そのプロジェクトは必然的に、それぞれの国が持つ固有の「歴史」をないがしろにすることになります。
歴史とは「コク」であり、改革とは「キレ」である
ぼくは、こう考えています。歴史とは「コク」であり、改革とは「キレ」である、と。
その国の文化や伝統といった、守り育てるべき「コク(深み)」。
そして、時代に合わせて変化すべき、「キレ」よく切り開くべき改革。
この二つのバランスを見誤った国に、未来はない。
画一的なグローバリズムは、この「コク」を、全て消し去ってしまう危険性を孕んでいるんです。
国の魅力って、その国が紡いできた「歴史」が彩るものですよね。歴史がない、過去を敬わない、ぞんざいに扱う。そんな、誇りのかけらもない国を、誰も好きにはならない。
「移民問題」の本質は、経済ではなく「存在論的な安全」
ポリティカル・コレクトネスという「八方美人」と「結論逃れ」
この国家観を土台に「移民問題」を考えると、その本質が見えてきます。
この問題は、本来、それぞれの国が、自分たちの国の形をどうしたいか、という文脈で、極めて慎重に管理・コントロールすべき政策領域のはず。
しかし、ここにも「人道的」とか「救うべき」といった、誰も反論できないポリティカル・コレクトネス(政治的な建前)が覆いかぶさり、まともな議論と思考を停止させてしまっている。
「共存しましょう」なんて、言うのは簡単です。でも、その言葉の裏で、何が見過ごされているのか。
ギテンズが喝破した、人間の「存在論的な安全」
哲学者のアンソニー・ギデンズは、「人間は、完全な開放系である複雑な世界では、存在論的な不安を抱える」と言いました。
ぼくらは、ある程度の規則性の中にいるから、安心して生きていける。挨拶の習慣、日々のルーティン、そして、自分を取り巻く環境(言語、文化、法、制度)が、昨日と今日で、そう大きくは変わらない、という確信。
これらが、ぼくらの「存在論的な安全」を担保しているんです。
マズローの欲求段階説
これは、心理学者のマズローが提唱した「欲求段階説」とも、深く関わってきます。
人間には、まず「生理的欲求」や「安全の欲求」といった、土台となる低次の欲求がある。
それが満たされて初めて、「社会的欲求」や「承認欲求」、そして「自己実現の欲求」といった高次の欲求に向かうことができる。まあ、自分の安全(具体的欲求)が満たされないと、夢を叶えましょうという欲求(抽象的欲求)に気を配る余裕はないよね、という話ですな。
移民問題の議論でよくある過ちは、いきなり「経済的な豊かさ」という、自己実現に近い高次の欲求の話をしてしまうことです。
でも、無計画で杜撰な移民の受け入れによって、地域社会の文化や慣習が加速度的に変化し、人々の土台である「安全の欲求(存在論的な安全)」が脅かされてしまったらどうなるか。
一度崩れた土台は、簡単には元に戻せません。取り返しがつかなくなってしまうんです。
だから、移民問題の根本は、経済問題である前に、この「存在論的な安全が脅かされる」という、極めて感情的で、根源的な問題なのだと、ぼくは思います。
なぜ、摩擦は起きるのか?:「需要・浸透・調整コスト」の視点
外国人は悪くない(個人は悪くない)
ここで明確にしたいのは、外国人個人が悪い、という話では全くない、ということです。
問題は、規模と、プロセスです。
ぼくらの社会に、異質な分子、つまり、異なる言語や文化、慣習を持つ人々が入り込む時。
当然、そこには摩擦が生まれます。
その摩擦を乗り越え、社会がその人々を「受容」し、彼らが社会に「浸透」していくまでには、必ず「調整コスト」がかかる。
これは、絶対に無視できない。
しかし、受け入れる側の国民(B)よりも、飛び込んでくる人々の数(A)が、あまりにも多すぎると、どうなるか。
この「調整コスト」が、社会のキャパシティを、あっという間に超えてしまう。
結果、もともとBが当たり前の価値観としてきたものが瓦解し、「自分たちの存在論的な安全が脅かされる」と感じる。
そして、その不満の矛先が、本来は何も悪くない、真面目に暮らしている外国人一人一人にまで向かってしまう。
これが、一番の悲劇なんです。
まあ犯罪者は人種問わずブラックです。問題は「グレー」。つまり制度の狭間で浮遊する外国人の急増が問題であり、それは外国人個人の問題ではない、ということです。
ある種の「侵略」としての、無秩序な受け入れ
そもそも、外部者(A)が、すでにあるコミュニティ(B)に飛び込んでいく以上、まずはBに根付いている制度や文化を学び、自ら馴染んでいこう!、という努力をするのが、筋ではないでしょうか。
それなのに、Aが徒党を組んで、Bに対して「自分たちのルールを認めろ」「権利をよこせ」と主張するのは、もはや話し合いではない。
それは、文化的な、ある種の「侵略」です。
そこに、Bが違和感や抵抗を覚えるのは、当然の反応なんです。
国が果たすべき、コントロールという「責務」
だからこそ、この「規模」と「プロセス」を、国家が責任を持ってコントロールする必要がある。
国は、NPOやボランティア団体じゃない。
通貨発行権があるからといって、無限に資源があるわけでもない(過剰な発行は景気の過熱を招く)
国益にならないことに、リソースは割けないんです。
だから、参政党が主張するような、移民の「人数制限」や「福祉のただ乗りができないような制度改革」は、排外主義なんかでは決してない。
むしろ、この「調整コスト」を現実的に見積もり、社会の崩壊を防ぎ、結果として、真面目に暮らしている外国人も、日本人も、両方を守るための、極めて現実的で、責任ある政策だと、ぼくは考えています。
主権国家たる日本、自分の政策に覚悟をもて、といことですな。
おわりに:共存のための現実的ロードマップを描く
「共に生きる」という言葉は美しい。反論の隙間も見当たらない。ポリコレ偏差値75のキーワード。
でも、その美しい理想を実現するためには、その裏にある、生々しい人間の感情や、社会的なコストから、目をそらしてはいけない。
まずは、自分たちの国の「コク」とは何かを、ぼくら自身が再確認する(歴史教育など。どこの国も当たり前にやっている)。
そして、新しい要素を受け入れる際の「キレ」の良さ、つまり、どれくらいの規模と速さなら、社会は軋轢に耐えられるのか、その現実的なラインを見極める(議事堂と霞が関、自治体の連携)。
その、地道で、泥臭いプロセスを抜きにして、安易に「共存」を叫ぶべきではない。
ぼくは、そう思っています




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