Last Updated on 2025年8月3日 by akito1012
目次
はじめに:「受験」に揉まれて急転直下。ぼくの学業物語
こんにちは、あきとです。
遍歴:SAPIX(ほぼA=ビリクラス)⇒偏差値40中高一貫⇒学年154位/155人中(中2_二学期末)⇒センター模試偏差値20(高2_10月)⇒センター本番85%Finishでギリ耐久(B判定)⇒地方国立大学進学(現役)⇒公務員試験通過(現役)⇒公務員退職(3年目?)⇒今ココ
(各工程につき画像あり)
ぼくの25年間の人生は、振り返ってみれば、常に「勉強」と共にありました。
いや、もっと正確に言うと、「受験の嵐」に苛まれた半生、と言った方がいいかもしれません。
最初は、勉強なんて、我ら子どもたちの首を絞めつける大蛇にしか見えなかった。
「意味なし、意義なし、役目なし」。極めてひねくれた思考をもちあわせていたわけです。
でも今は、心の底から「学びにはコクがある」と思える。
というより、「学び」にとりつかれるようになっている。
今回は、その矮小な個人戦記について、つらつらと語ってみたいと思います
(中二_進研模試)
挨拶初めに、1枚の成績表を共有しておきます。
学年ワースト2位の記念すべき帳票です。
この落ちこぼれが、どういう経緯で筑波大学を目指すようになったのか、その一部始終のストーリーを、以下でご覧ください。
全六章立ての「勉学遍歴」、スタートです。
第一章:小2_早すぎる強制収容。SAPIXで安泰のAクラス。
小2で始まった「勾留」生活
ぼくの勉強の歴史は、小学2年生の時、中学受験塾のSAPIXに、まるで「豚バコに収容」されるかのようにして始まりました。
刑事裁判よろしく、「勾留」という漢字が頭をよぎるような、長い「勾留」生活の幕開けです。
SAPIX、御三家を目指すような、いわゆる「知的上流階級」の子たちが集まるエリート軍隊。
SAPIX⇒御三家⇒鉄緑⇒東大、みたいな固定ルートが有名になるほど、偏差値エリートが集う塾、らしいですな。
最大のKPI=親のご機嫌維持日数
ぼくは、その中で全くついていけず、ずっと一番下のAクラス。
…ずっとではないけれど、ほぼ、Aクラス。
そりゃそう。先生と親の掛け声にただ従う日々で、生気も意欲も全くなかった。
親のご機嫌を保つことが、当時の唯一のモチベだったかもしれません笑
右向けといわれたら右向く、左向けといわれたら左向く。
まさに将軍複数(教師、親、世間の目)、軍人1名(我)の、狭小軍隊でした。
授業内容は理解できず、ただ形だけを暗記する日々。
喜びも楽しみもない通塾の日々。
たまにクラスが上がっても、それでもせいぜいCクラス。
小5の時に、奇跡的に一時Gクラスにあがりましたが、その2か月後には再びB。
喜劇から悲劇への急転直下ですな。
まあ、Gクラスに配属されても、当時はクラスの準エリート組に全然ついていけなかったから、逆にビリクラスに戻れて安堵したという思いもありました笑
今思い返すと、SAPIXの演習量には目が飛び出るものがありましたね。処理が追い付かず、ただプリントがぼくの家にインプットされ続けるのみ。そりゃ、授業についていけなくなる。ぼくには脳のキャパシティが足りなかったのでしょうな。やたらと頑張ってたのは、なんか母親だけでした笑
第二章:小6_偏差値40という着地点
SAPIXからの脱皮とテキスト地獄
で、やめたんです、SAPIXを。
ていうか、気づいたら辞めさせられてた笑
なんか周りが勝手に焦り始めて、気づかぬままに塾を変えられていた。
ぼくは意味も分からずに、小6の頃には突如個別指導に移ってました。
気づいたら塾変わってたんで、「いや、この個別塾まじでどこやねん。SAPIXはどうなったんや??」、的な感覚でした。
完全に振り回されているだけ、本人は一番状況を理解できていませんでしたね笑
まあ、塾が変わったとて、特段状況は変わらず。
同じように豚箱に詰め込まれて、メモリーチェックとか予習シリーズみたいな全く興味も関心もないテキストに対峙する日々が続きました。
当時は目的もわからぬまま、馬車馬のように勉強させられていました。
あと、なんか時事問題とかね。
カンタイヘイヨォォパァトナァシップウキョオゥゥテェェェ
とかなんとか、訳わからん言葉を、頭にメリメリと叩き込まれていました。
なんの教育だったのだろうか、あれは笑。
大人の気迫に押されてただけでしたね、ホントにしょうもない。
勝手に決められた謎志望校、よくわからず受験した志望校
で、なんかよく分からないうちに志望校が決まり、まるで運命の定めであるかのように当然のように受験させられ、気づけば偏差値40(当時、今は60弱!)ほどの中高一貫校に入学していました。
まあ正直、当時は合格しても特に無感情でしたね。
アパシーでした。
まあ、強いて言えば、ひとまず「総統(親と塾)への八方美人」を卒業できた!」という喜びはありました。
あるいは、「いよいよ中学受験という鉄の鎖から解放されたか!」という、そういう享楽的な感覚の方が大きかったですね。
余談) 中高一貫校でのの暮らしについて
ただ、この学校の先生方は、授業や部活を含めて面倒見もよく、加えて友人にも恵まれていました。
だから6年間の中高生活は、可もなく不可もなく、それなりに楽しめたのかなと思ってますね。
加えて、男子校だったので、無駄に異性に気を遣う必要もなかった。これが地味にぼくをストレスから解放してくれましたね
※当時のぼくにとっての女性像は、恐怖像に塗り固められていたので。姉と母親が原因かな笑
6年間を通して、男子校らしく無邪気に暮らしてましたな。
トイレのポンプを詰まらせて大洪水を引き起こしたり、隣の建物の屋上にボールペンや鉛筆を投擲したり、教室の壁に激突して中の断熱材を粉砕したりなど、どこの男子もやるような普通のおふざけをして、6年間を過ごしていましたね。
そう考えると、当時は訳も分からぬまま決めた決められた志望校でしたが、まあ、結果論でいえば良い着地だったのかなあと。
そうやって、過去を正当化したい気持ちにやまれるのも致し方ない笑
あ、ぼくは大人の前でいい子を演じるアビリティは偏差値70あったので、こういう裏事情は決して親とか人前で話すことはありませんでした。そのあたりは、きちんと弁えてます笑。大人の機嫌を損ねたら子どもの生存が脅かされますからね、その演じ分けをする程度の知恵はありましたね。
第三章:中学1~2年_学年ワースト2位、高校進学危機へ
スタートダッシュからの、急転直下
さてさて、くだらない話はテキトーに終わらせて、話の舞台は中学時代へと移ります。
時は2012年、中学1年生。
無気力な中学受験を終えたぼくですが、入学当初は意外にもスタートダッシュ効果が功を奏したのか、割と成績は上位3分の1くらい。
…別に良くも悪くもないような、誠につまらん順位を行き来していました。
しかし、その平穏は長くは続かず…。
中1の秋から冬にかけて、ぼくの私生活は徐々に、しかし確実に、反学業思想とゲーム・SNSに侵食されていきました。
そして、ついには絵にかいたような「落ちこぼれ」へと、急転直下していくことになります。
当時はちょうどパズドラがリリースされ、それに重ねる形で、ameba piggやにゃんこ大戦争、ケリ姫、モンスターストライク、グラセフ…と、ひたすらゲームに明け暮れる毎日。そりゃ、結果は目に見えてますな。
中学受験界隈では、「深海魚」という言葉があるそう。難関校に入学した刹那、学業への熱が一気に冷却され、気づけば学年下位軍団の常連と化してしまうような一部の悲劇の中学生たちのことを指すようです。「難関校」という点を除けば、ぼくも深海魚だったかもしれません。受験に熱を注いでいたのは、親だけだったので笑。
進研模試学年ワースト2位と、数学6点の道楽
その自堕落な生活が、残酷な「数字」として突きつけられたのが、中学二年生の時。
ちょうど、その頃の模試の成績表が、なぜか実家に保管されていました。
ここらで共有しておきましょう。
(中二_進研模試)
どこでも受けさせるような、進研模試ですな
なお学校のレベルは平均以下です(全国平均/142点、校内平均/112点)。
その中で、ワースト2位ですから、まあ崖っぷちというか、むしろ崖から落ちて何とか山肌の崩れかけの取っ手を掴んでいるような有様でしょうか…。
もう「下には下がいる!」とか言ってられない状況です。
1人しかいないし。
授業とか勉強とか、もはや眼中にありませんでした。
軽く反抗期、というか、ちょいと社会に対して反感を抱いてましたね。
受験やら勉強やら、「おまいら喧しいんじゃ!」って。中学生男子によくあるやつです。
たとえば中2の当時は、男子校が嫌すぎて、アメーバピグやTwitterで外部女子との交流を求める始末(JGの優等生とAmebaとリアルで出会えたのはぼくの秘かな想い出です笑)
学校の成績も、もちろん悲惨なもの。特に数学はひどく、テストで6点を獲得。
(中二_二学期末)
当時は、この成績表を受領しても、何の危機感も恐れも抱きませんでした。
「おお、これが廃人の、なれの果ての姿か!」と一人謎の愉悦に浸りつづけていました。
※ちなみに6点の内訳は、チェバの定理とメネラウスの定理で各3点ずつでございます。
これが、SAPIXに5年間通い続けた男児の2年後の姿。誠に哀れで悲惨でございます。
書いてて思いました。家庭内学業教育の核心は、子どもに「勉強をやらされている」という感覚を抱かせないことなのかなあと。
一筋の光:海城高校出身の先生との出会い
さてさて、赤点マシンガン乱れ撃ち。あきと、ピンチっす。
このままでは高校に進学できない、という崖っぷちに立たされました。
まあ別にぼくはよかったのですが、周囲の大人のご機嫌を直すために、とりあえず勉強しようかと、そう思ったんですね。
あ、とりあえず問題集を解くという「形」だけのお勉強ですから、内容に対する理解も納得も欠損してます。
というわけで、そこでまた、親によって塾に「収容」されるわけですが、そこで一つの転機が訪れました。
塾でぼくを担当してくれたのが、脂ぎったおじさんではなくて、海城高校出身だという、爽やかな大学生の先生。
その先生の数学の教え方が、ぼくの知的好奇心を、初めて強く刺激してくれたんです。
「あれ、数学ってゲームっぽくて面白くね。学びって、奥深くね。これ、いいんじゃね」。
そう思えた、人生最初の瞬間でした。
このあたりから、ぼくの勉強に対する眼差しに、少々の変化が垣間見えるようになりました。
親に感謝すべき、なのかな。ここは。
第四章:中3~高1_友人に憧れ学年1位への「下剋上」を目指す
「勉強できる。素直にかっこいい」―環境が変えた意識
とはいえ、それだけで成績が急浮上するわけでもなく、なんとか70位くらいに持ち直した程度。
(中三_一学期中間)
全体が160人なので、その平均より少し上くらい。最も中途半端で、面白みがない順位です
公民や理科2(生物系)など、暗記科目は割といい点数だけれど、それ以外はボロボロですな
で、そのままぼくは高校に進学できました。かろうじて首の皮一枚つながりました。 やった。
そして内部進学した直後に、ぼくの学業観に対する過去一番のパラダイムシフト訪れました。
すなわち、「環境」です。「クラスメイト」です。
高校で新しく編成されたクラス(まあ中高一貫で毎年変わるんですけど)。
秀才に憧れた落ちこぼれ。その決意と決行
ぼくの席の周りには、学年2位や5位が当たり前の、いわゆるTOP常連の秀才たちが集っていました。
こりゃ出席番号に感謝しかありませんな。
で、彼らは学年TOPの常連組。
ぼくは彼らに、ピュアな尊敬と憧れを抱くようになりました。
毎度のテストで上位層に食い込みながら、互いに鎬を削る同年代の男子生徒。
ぼくと変わらない年齢なのに、切磋琢磨しながら逞しく刺激し合っている、そんな間柄の男の子たち。
その姿を見て、正直、誉高いものを感じてしまったんです。
「勉強できるって、なんかかっこいいかもしれん。勇ましくて、誇らしいんだ」と。
心から惚れ惚れしちゃいました。
「このTOP層に食い込みたい!」「同じ土俵で学問を語りたい!」。
そう思える人たちに出会うことができました。
同時に、
たった一つの成功法則:粘り強く「完全な暗記」 。妥協なき「徹底暗記」
その日から、ぼくはちょっと考え方を改めることになります。あ、行動も。
ゲームも、SNSも、一旦全部やめて、勉強に打ち込んでみた。
ぼく何かに熱中することは割と得意なので、面白みとか興味さえあれば、日がな一日勉強しまくることには特に抵抗感は感じませんでしたね。勉強もゲームみたいなもんですな。
で、やり方は、極めてシンプルでした。暗記です。
授業の1分1秒に聞き耳を立てる。先生が発言したことを一言一句ノートに書き、それを全部覚える。教科書も、問題集も、隅から隅まで全部覚える。反射的に答えが出るまで徹底暗記する。
ペンが止まらずに気分爽快_暗記戦略でテスト無双
そうしたら、学校の中間・期末テストなんて、覚えた内容ばっかりポンポン出るわけです。
あまり深く理解してなくても、形だけ覚えてれば、なんとか解けちゃうんです。
現にテスト本番では、書く手が止まらず、淀みなく、解答用紙に文字がとめどなく埋められていく。
まさに快感、爽快。鉛筆の動きが止まらない、見直しをしても時間に余裕。
こんなにも清々しい体験は初めてでした。 そして、チャイムが鳴りテストが終了したときの達成感。
心底気持てぃぃですよ、この感覚。
結果、面白いように90点とかを連発し、気づけば、学年で2位とか3位にまで一気に駆け上がっていた。
(高一_二学期末)
高1の4月に勉学に目覚めたぼく。
そこからはぐんぐん学びを深めていき、1年弱で学年140から学年2位に上り詰めました。
当時は、周囲に自慢したい想いに蓋をして、ひたすら冷静を「装って」いましたな笑
(高一_3学期課題テスト)
冬休み明けのテストですね。
ぼくのクラスには、中1から学年TOPを独走中の猛者がいたため、ぼくはどう足掻いてもクラス1位にはなれませんでした。
さすがに勝てまい!
「あれ、ぼくも努力したら、結構いけるんじゃないか?」
この、人生で初めて掴んだ、地に足が付いた泥臭い「成功体験」。
この体験が、ぼくを大学受験の壮大な目標へと駆り立てていくことになります。
第五章:高2~3_偏差値20⇒65へ、目標の筑波大学へ猛進する
国際政治を探求するべく、文系での大学受験を決意
さてさて、時は高2直前、進路選択の時期となりました。
上記での成功体験と、中3の時の海外修学旅行で芽生えた国際関係への興味から、ぼくは文系コースに進み、外部の大学を受験することを決意することになります。
なお当時は2015~16年。
ちょうどトランプ大統領が登場した時期とも重なり、移民問題に興味を持ち始めたことから、国際政治を学びたいと思うようになったのも契機になりましたね。
※ちなみに、ぼくの中高は大学付属。しかしその大学は「理系単科」なんですよね。だから国際政治を学ぶためには、必然的にエスカレーター外の道に足を踏みだす必要があったのです
井の中の蛙、偏差値20に悲観。全国レベルに打ちのめされる
でも、ここでまた壁にぶち当たります。
学校のテストでトップクラスの成績を取っても、東進やベネッセ、駿台といった全国模試では、全く歯が立たないという現実です。
たとえば、高2の当時は、すべての学内テストで1位を守り続けていました。元学年ワースト2でも、努力すりゃ下剋上はいくらでもできる、ペーパーテストの偉大さと公平さを噛みしめていた時期でした。
(高2の学年末評定)
高2の最終評定表です。
体育以外は5段階評定の5を獲得。
1学期から3学期を通じて常に学年1位を死守することができました。
しかし…。
しかしながら、ぼくが見ている世界は、あまりにも狭すぎた。
ぼくは完全に土俵を見間違えていた、いや、「受験」を「記憶力テスト」とはき違えていたのです。
たとえば、東進で受けたセンター模試。
時は受験本番1年前の12月.。
偏差値40くらいは出てほしい、と思いながら受験したこの模試の結果は、
(高2の12月_センター模試)
- 国立型:19.0
- 私立型:26.6
高2の春あたりに入塾して、それなりに勉学を重ねていたぼく。
しかし相手が全国では歯が立たず…。
偏差値20の成績表。中二時代へ逆戻り…?
..沈黙。唖然。瞑目。消沈。昇天。
当時は数学なんて時間云々の前に、まず解けなかった。
国語も、和歌やら漢詩やら、読解不可能だった。
※あと、偏差値って25以下もあるんだっていう新発見。15なんて初めて見ましたな笑
総括すると、「這いつくばる底辺」。はい。
そこで実感したのが、学校のテストは、所詮、限られた範囲からの出題だということ。
本当の実力とは違うということ。形だけ知っているだけでは太刀打ちできないということ。
ここでぼくは、受験の厳しさを初めて知りました。恐ろしさを身をもって体感しました。
とんでもない魔境に足を踏み入れたんだなあと、少し身震いすることも。
まさに、井の中の蛙でした。
そういえば中二でも、似たような偏差値をとっていましたね笑。
ただ、同じ偏差値20でも、中二と時と違うポイントがある。それは「思考」。20という数値に対する「悔しさ」があったこと。勉学に対する「前のめり」な姿勢があったこと。
つまりマインドが決定的に違っていました。
自惚れもなく慢心もなく…。泥臭く、這いつくばる。
そこからは、地道に泥臭い努力を日々積み重ねるような、そういう味気ない日々が続くことになります。
ただ、勉強自体は楽しかったので、不思議と「嫌」に思うことはありませんでした。
Study plusで記録していた当時の勉強ログです。
これはセンター2週間前ですね。
正月は、初詣の帰りに、東進に突撃した覚えがあります。
まあ受験生なら、正月でもそういう行動になりますよね。
10周、20周とやりこみ、チューターの先生の話に素直に耳を傾けながら、無我夢中で勉強に励んだ。 たとえば、
- 青チャートは単元ごとに切り離して電車でもどこでも解法暗記に徹するとか(『受験は要領』を参考)
- 英語の長文講義(今井先生!)を受けたら最低20回は音読するとか
- 世界史は暗記ペンでマーカーを引きまくり教科書全ページをを丸暗記する覚悟で勉強に臨むとか
- 英作文は学校の先生にメールで添削を依頼しながら力をつけるとか
そういう、まあ言われてみれば当たり前のことだらけですが、淡々と確実に積み重ねていきました。
(参考書一部紹介)
1対1対対応の演習は、受験勉強を通じて、一番のお気に入りの参考書となりました。
ていうか、なんでこんな画像が残ってたんだろ笑
幸いぼくは、「自分は地頭が悪い」と自負していたので、自惚れにも慢心にも陥らずに、1問1問を着実に血肉に溶け込ませるような前進を続けることができましたね。
そりゃ地頭悪いです。5年間もSAPIXに通った結果が偏差値40、実力テストの模擬試験で偏差値20。「泥臭さ」と「根性」で差をつけるしか、ぼくに残された選択肢はありませんでしたね。
理想的なフィニッシュ、そしてキャンパスへ
ではぼくの直前期の成績はどうだったのか、そこだけ簡単に触れておきましょう。
高2の冬で5教科7科目の偏差値が20だったぼく。
英語が40、数学が30だった底辺。
それでも直前の12月の模試では、なんとかD判定までもっていき、本番の1月14日/15日は約83%でB判定フィニッシュ。
(画像解説)
下記センター試験の得点表は、大学センター側に情報公開請求を掛けて開示していただいた資料になります。
科目コードとかで管理されているようですな。
(センター本番_2017年1月)
大嫌いな古文で謎の満点。
理科及び社会も平均9割。
と思いきや…。
数学と英語に殴り倒されました。
はい、実力不足です。
ミス量産したけれど、それは言い訳。実力が及ばなかっただけ。
しかし!
その憂さ晴らしとして、国立二次試験は、英語と数学で無双してやりました。リベンジ成功!(後ほど詳説)
こうして、打倒国立の1次ラウンド(センター試験、現共通テスト)を、何とか潜り抜けることができたのです。
二次テストは、受験の中でぼくの探求心を刺激し続けた「数学」と「英語」の二科目で勝負。センターでの雪辱を果たすべく、最低でも8割を狙う覚悟でした。
(画像挿入予定!現在筑波大に情報開示請求をしています笑)
見事筑波大の壁を打ち破り、晴れて広大で牧歌的な筑波キャンパスでの学びに打ち込める権利を手に入れたわけです。
というのが、ぼくの大学入学までの振り返りと、ちょっとした自慢のストーリーとなります笑
第六章:大学生_好奇心の奴隷、労働忌避、そしてその先へ
知の探究に勤しんだ最初の2年間
舞台は自由の学び場、大学生活へと移ります。
筑波は他学群の授業も基本受け放題です。
最初の1~2年は、線形代数とか放射線、進化ゲーム論など、自分の学群(国際総合)に無関係の授業も取りながら、「好奇心の開拓プロジェクト」に勤しみました。
まさに、好奇心の奴隷と化していました。
落合陽一先生の授業も受けられました。
内容は、全然覚えてないです笑い
時にはPC室(サテライト室)で同志と夜を明かしながらテスト勉強したり、友達の家に泊まって夜通し学歴談義とか恋バナとかしたり、学園祭実行委員会でちょっぴり恋愛したり。
当時のスケジュールです。
興味深い授業が多いため、かなり授業を詰め込んでいた覚えがあったのですが、今見返すと割と空きコマが多いですね笑
興味を全方位に拡散させるような、そんなキャンパスライフを送っていました。楽しかった!
探求と議論で熟した国際政治と移民問題
さて、ラスト2年は、じっくり腰を据えて、本丸の移民問題を探求する学生生活。
誠に伸びやかな学問生活を送ることができましたね。
論文をあさり、文献を読み込み、ゼミで教授と議論する。
フィードバックに基づき、新たな先行論文を開拓し、自分の意見をまとめ、再度ゼミで報告する。
今思うと、本当に贅沢な時間を過ごすことができたなあと、親と自分に感謝しかありません。
当時は、例の変異大好きRNAが日常をハイジャックしていた時代。
ただ、授業は1~2年で取り終わっていましたし、大学3年以降は、当初からゼミと公務員試験に捧げるつもりだったので、個人的なダメージはあまり大きくありませんでしたね。
とは言いつつ、もちろん感じてはいましたよ、同志や教授と会えない寂しさは。
労働者という現実を直視。
時は大学3~4年生。
学びは好きになったけれど、働くこと自体にはあまり興味がなかった、無責任なぼく。
そんな彼は、穏やかに働けそうな公務員を目指すことにしました。
ここで三度登場、「お受験」。
結果、まあ、無事に通過。
まあ、公務員試験って、薄っぺらい知識を15科目くらい頭に入れればいいだけなので、正直あまり達成感はありませんでしたね笑。
なんのアピールにもなりませんな。
おわりに:「逃避」から「誇り」へ
勉学遍歴の振り返り
ふう。ぼくの怒涛の受験人生、つまり、「SAPIXに5年在籍しても偏差値40の中高一貫校にしか行けなかったぼくが、いかにして中学でワースト2位の落ちこぼれとなり、そこから8回連続学年1位獲得+国立大現役進学への野望を果たしたのかの軌跡」を長々と書き連ねてきました。
要約すると、こんな感じ。
遍歴:SAPIX(ほぼA=ビリクラス)⇒偏差値40中高一貫⇒学年154位/155人中(中2_二学期末)⇒センター模試偏差値20(高2_10月)⇒センター本番85%Finishでギリ耐久⇒地方国立大学進学(現役)⇒公務員試験通過(現役)⇒公務員退職(3年目?)⇒今ココ
「わからない」は「辛い」。だから「逃げたい」
こうして振り返ると、ぼくは最初から勉強が嫌いだったわけじゃない。ってことに気づかされました。
むしろ、「分からない。できない。授業についていけない。どんどん周りに置いていかれてしまう」。
これが途方もなく辛くて、苦しくて、不安で、孤独で、どうしようもなくて、手がつけられなかっただけ。
自己嫌悪に陥っていたのかもしれません。
環境が人を作る。
でも、高校での「環境の変化」が、秀才たちへの「憧れ」を生み、それが「野心的な学習意欲」に繋がり、「成功体験」を得させてくれた。そして、その成功体験が、揺るぎない「誇り」になった。
18歳という若武者の状態で、「誇り」というプライスレスな価値を手に入れられたことに、ちょっぴり喜びを感じていた、そんな当時のことを思い出しながら、この記事を書いておりました笑。
今後は、こういう学業とか学歴に関する記事を、バンバン書いていきたいなと思ってます。
よろしくどうぞです。
あ、ちなみに今25歳です、こんにちは、こんばんわ。
勉強というか、学歴って、個人個人の生々しい感情とか戦略で形作られる個人戦記みたいなものじゃないですか。若武者による血生臭い戦場なんですよね。それを深堀していくと、その人が歩んできた葛藤とか屈辱、栄光、挫折、誇り、絶望が垣間見える気がして、その人生の生々しい歴史に心が奪われちゃう。だからこういうストーリーって、ぼくの心にしみわたるんですよね。

















コメントを残す